本文へ
← 腕時計史 · 第1章 起点とフォーマットの探索
腕時計史 · MILESTONE — 第1章 起点とフォーマットの探索
19C末

腕時計=女性の装身具(wristlet)

腕は女性のもの、懐中は男性のもの——19世紀末に定着したこの性別化された時計観こそ、やがて戦争が覆す前提だった。

§ 00 Overview

19世紀末、腕に着ける時計は女性の装身具であり、男性は懐中時計を持つものという認識が市場に定着していた。腕に巻く時計は当時wristletと呼ばれた。時刻を実用的に携えるのは、上着のポケットに収める懐中時計の役目だった。もっとも、この前提には早くから綻びがあった。植民地の戦地では、英軍の将校が懐中時計を革帯で腕に固定して使い始めていた。1893年にはロンドンのガースティンが、懐中時計を腕に留める革製のwristletを意匠登録している。男性向けの腕時計市場が芽生えつつあった。この性別化された時計観は、第一次大戦が覆す前提として、本史の基準点に置かれる。

§ 01 Background

19世紀の時計の主役は、懐中時計だった。多くは鎖でベストやチョッキに留められ、必要なときに取り出して蓋を開け、時刻を確かめて閉じる。一日に何度も繰り返されるこの所作は、勤勉さや几帳面さ、社会的な地位を示す男性の身だしなみの一部だった。銀行員も聖職者も鉄道員も、それぞれの懐中時計を携えていた。金や銀のケースに鎖を渡した懐中時計は、男性が人前で身に着ける数少ない装飾品でもあった。

一方、腕に時計を巻く習慣そのものは新しいものではない。富裕な女性や宮廷の貴婦人は、ブレスレット型の時計を装身具として古くから身に着けてきた。1810年にブレゲがナポリ王妃のために手がけた一作はその象徴である。ただしこれらは個別に誂えられた高価な宝飾品で、数も限られ、時刻を読む道具というより腕を飾る品だった。腕は女性が装う場所、ポケットは男性が時刻を携える場所——こうした暗黙の住み分けが、19世紀末の市場の前提として横たわっていた。

§ 02 The Event

19世紀末、腕に着ける時計は女性のための装飾品という認識が、市場の常識として固まっていた。腕に巻く時計は当時wristletと呼ばれ、男性が身に着けるには女性的すぎると見なされた。懐中時計を蓋ごと取り出す所作に慣れた男性たちは、腕の時計を半ば揶揄の対象とした。時刻を実用的に携えるのは懐中時計の役目であり、腕時計は装身具という線引きが、買い手にも作り手にも共有されていた。

しかし、この前提には実用の側から綻びが入り始める。1880年代、英軍の将校は植民地での戦いで、懐中時計を革帯で腕に固定して使うようになった。1885年の英緬戦争や、南アフリカの諸戦がその舞台とされる。馬上や戦闘の最中に懐中時計を取り出すのは難しく、両手を空けたまま時刻を読めることが軍務では切実だった。

この需要に応じて、革製のwristletが作られ始める。ロンドンの革製品業者アーサー・ガースティンは、1893年9月2日に懐中時計を腕へ留める革帯の意匠を登録した(RD217622)。同社は1880年代後半から類似の品を手がけていたとされる。1898年にはマッピン&ウェッブが兵士向けのキャンペーン・ウォッチの製造を始めた。男性向けの腕の時計という市場が、輪郭を持ち始めていた。

それでも、多くの男性はなお懐中時計を選び、専用に作られた男性向け腕時計の販売は小さなものにとどまった。装身具という見方は根強く、腕時計が男性の実用品として受け入れられるには、別の大きな契機を待つ必要があった。

§ 03 Significance

この性別化された時計観の意義は、市場の構造そのものを規定した点にある。腕時計が後にたどる普及は、この腕は女性のものという前提を覆す過程として理解される。実用の圧力はすでに軍の現場で高まっていたが、装身具という文化的な見方が、それを長く押しとどめていた。

前提を崩したのは、第一次大戦だった。塹壕での同期した作戦には、両手を空けて即座に時刻を読める腕時計が欠かせず、男性は実需から腕時計を受け入れていく。1916年には、英国のある時計会社の株主総会で、4人に1人の兵士がwristletを着け、残りも入手を望んでいると語られたと伝わる。戦後の1919年前後には、腕時計は男性の標準装備として定着し、懐中時計の産業は縮小へ向かった。1930年前後には、腕時計の数が懐中時計を大きく上回ったとされる。

注目すべきは、ひとつの品物に結びついた性別の連想が、一世代のうちに反転した点である。かつて装身具とされた腕時計が需要の中心となり、男性の標準だった懐中時計は旧世代の品へと退いた。19世紀末の偏見を踏まえて初めて、この転換の大きさが見えてくる。腕時計が女性の装身具だったという基準点は、その後の歴史が描く需要構造の逆転を測る原点である。

← 年表へ戻る