本文へ
← 腕時計史 · 第0章 前史
腕時計史 · MILESTONE — 第0章 前史
1505頃

携帯時計の登場(ニュルンベルク)

時計が塔や室内を離れ、人が身に帯びるものへ——その最初の一歩は、16世紀初頭の南独で踏み出された。

§ 00 Overview

16世紀初頭、南独のニュルンベルクやアウクスブルクで、ゼンマイを動力とする小型の携帯時計が作られ始めた。それまで時計は塔や室内に据えられ、重錘で動く大型の装置で、時刻は街で共有されるものだった。ゼンマイの応用が動力の携帯を可能にし、時計は人が身に帯びる装身具へと姿を変えていく。錠前師ペーター・ヘンラインはその先駆者の一人とされ、1511年の同時代の記述に、鉄から多数の歯車を組み姿勢を問わず40時間動く時計を作る若者として名を残す。ただし発明を彼個人に帰す説には諸説がある。時計が人の手元へ移ったこの出来事は、時を私的に所有するという新しい関係の始まりだった。

§ 01 Background

中世以来、機械式時計は塔や教会、広間に据えられる大型の装置だった。動力は吊るした重錘の落下から得られ、錘が下がる空間を必要とするため、時計は一所に固定して使うものだった。時刻は鐘の音や塔の文字盤を通じて、街という公共の場で共有される。個人が時を手元に持つという発想は、まだ現実のものではなかった。

この前提を変えたのが、ゼンマイの応用である。巻き上げた渦巻ばねがほどける力を動力に使えば、重錘も落下のための空間もいらない。ゼンマイ自体は15世紀前半には知られていたとされ、これを小型の機構に組み込むことで、時計を箱から解き放つ道が開けた。

舞台となった南独のニュルンベルクやアウクスブルクは、金属加工と精密手工の集まる都市だった。とりわけ錠前師は、錠や鍵を超えて複雑な金属機構を扱う職人であり、歯車や小ばねを精緻に仕立てる技量を備えていた。富裕な市民や宮廷が珍奇な工芸品を求める需要も、この地に厚く存在した。携帯できる時計が生まれる素地は、技術と市場の両面で整いつつあった。

§ 02 The Event

1500年代に入る頃、ニュルンベルクを中心とする南独で、ゼンマイを動力とする小型の携帯時計が作られ始めた。形は一様ではなく、太鼓のような円筒形のものや、香料を入れる球形の容器(ポマンダー)に機構を収めたものなどがあった。鉄で組んだ機構を、金鍍金をほどこした真鍮のケースに納め、鎖でつないで首から下げたり衣服に留めたりして持ち歩く。針は時針が一本のみで、分や秒は示さない。

この時期を語るうえで繰り返し引かれるのが、錠前師ペーター・ヘンライン(1485頃-1542)の名である。1511年、同時代の人文学者ヨハネス・コクレウスは、ヘンラインとされる若い職人を称えて書き残している。わずかな鉄から多数の歯車を備えた時計を組み、姿勢を問わず40時間動いて時を打ち、財布にも懐にも収まる、と。この記述が、ヘンラインを携帯時計の祖とする後世の評価の根拠となった。

もっとも、発明を彼個人に帰すことには諸説がある。ヘンラインは最初期の作り手の一人であって、同じ頃に同種の試みを行う職人は他にもいたと考えられている。ゼンマイそのものの考案者でもない。現存する個体としては、1505年の年記をもちヘンラインの作と伝えられるポマンダー型の一作が知られる。ただしこの型の現存は2点ほどにとどまり、真贋や年代をめぐっては検証の余地が残る。初期の携帯時計は高価で、日に数時間も狂う不正確なものだったが、それでも時を身に帯びるという新しい所有のかたちを示していた。

§ 03 Significance

携帯時計の登場は、技術と意匠の双方に出発点を残した。技術の面では、重錘から渦巻ばねへの動力の転換と、機構を手のひらに収める小型化が始まった。姿勢を問わず動くという要求は、以後の調速機構の改良を長く促す課題となる。本史が後に追う精度や薄型化は、この最初の一歩から続いている。

意匠の面では、時計が実用の道具であると同時に身分の象徴となった。高価で珍奇な携帯時計は富裕な市民や宮廷人の装身具であり、所有者の財力と教養を示した。機構が香料容器に収められた例は、時計が計時の道具である前に、まず装飾品であったことを物語る。装身具から道具へという本史の長い転換は、この地点を裏返していく過程でもある。機構を金鍍金の金属で装う仕立ては、機能と装飾を一つの工芸品にまとめており、素材をめぐる系譜は、ここから金やステンレス、近代の新素材へと枝分かれしていく。

なお、この時代の携帯時計は後に『ニュルンベルクの卵』の名で語られることが多い。だが卵形のケースが広まり、その呼称が定着したのは、ヘンラインの没後しばらく経ってからだとされる。名の由来も、時計を指す古い語が誤って卵を意味する語に転じたとする説がある。伝説と事実が混じり合うこの起点から、時計は身に帯びる道具として、やがて懐中時計、そして腕時計へと姿を変えていく。

← 年表へ戻る