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腕時計史 · MILESTONE — 第6章 機械式の復権と独立時計師
1985

AHCI(独立時計師アカデミー)設立

大資本が時計を工業化する時代に、孤立した個人の手仕事へ共同の場を与える——1985年のAHCI設立は、機械式復権を象徴する一歩だった。

§ 00 Overview

1985年、スイスで活動する2人の時計師スヴェン・アンデルセンとヴァンサン・カラブレーゼが、独立時計師の連帯組織AHCIを設立した。クォーツ革命の余波で機械式は時代遅れとみなされ、個人で創作する時計師は孤立し、その存在すら知られにくかった。2人は前年に世界の専門誌へ呼びかけを送り、翌夏、ル・ロクルの時計博物館で最初の共同展示を開いた。狙いは、散在する作り手に発表の場を与え、産業生産とは別に手仕事の時計が価値を持つことを示すことにあった。後に独立時計師という領域を世に知らしめる起点となった。

§ 01 Background

1980年代前半の時計界は、クォーツ革命の衝撃のただ中にあった。電子式が精度と価格で機械式を圧倒し、歯車とゼンマイで時を刻む技法は時代遅れと見なされていた。スイスの大手は淘汰と再編を迫られ、生き残ったブランドは量産と効率に活路を求めた。複雑機構や手仕上げといった手仕事の技は、市場のなかで居場所を失いつつあった。

そうした状況で最も苦しい立場にあったのが、ひとりで設計から製作までを担う独立の作り手だった。工房は小さく、販路も乏しい。大手のような広告も展示会の費用も持たない。インターネット以前のこの時代、彼らの存在は同業者や一部の収集家にしか知られず、客のほうから探し当てるしかなかった。

一方で、機械式を求める声がわずかに芽生えてもいた。イタリアなどの収集家が、工業製品ではない手仕事の時計に関心を寄せ始めていたと伝わる。点在する作り手をひとつに束ね、共同で世に問う場をつくれないか——この発想が、後の連帯組織の出発点となった。

§ 02 The Event

中心となったのは、経歴も国籍も異なる2人の時計師だった。スヴェン・アンデルセンは1942年デンマーク生まれで、1963年にスイスへ渡り、パテック フィリップの複雑時計工房を経て独立した。カレンダー時計を得意としていた。ヴァンサン・カラブレーゼは1944年ナポリ生まれで、1961年にスイスへ移った。コルムのゴールデンブリッジに用いられた直線状のムーブメントを生み出した作り手である。

1984年、2人は世界の専門誌に宛て、独立して創作する時計師へ共同展示への参加を呼びかける書面を送った。いくつかの編集部が応じ、欧州各地の作り手から返答が届いた。翌1985年夏、ル・ロクルの時計博物館で最初の共同展示が開かれた。この時の名称はAcadémie des Créateurs Indépendants de l'Horlogèreで、2人のほかに数名の作り手が加わった。ヴァレ・ド・ジューの極薄時計を手がける工房なども名を連ねた。

会員の条件は、国籍を問わず、独立して自作を設計・製作する技量を持ち、既存会員の推薦を得ることだった。大手の方針に縛られず、個の創作を保証する仕組みである。アンデルセンの回想では、この年に英国のジョージ・ダニエルズから入会を望む手紙が届いたという。

組織が現在の名称Académie Horlogère des Créateurs Indépendants、すなわちAHCIとして定着するのは1987年である。この年、団体はバーゼルの時計見本市に初めて出展した。会場の隅に追いやられた簡素な区画で、見本市が独立系をどう扱っていたかをうかがわせる出発だった。

§ 03 Significance

AHCIの意義は、まず独立した作り手に市場での可視性を与えた点にある。それまで個々に制作していた時計師が、共同の展示と相互推薦という仕組みのもとで、ひとつのまとまった集団として認知されていった。共同で発表の場を設けるこの方式は、その後も独立系が世に出るための基本的な道筋であり続けた。

この連帯は、機械式復権の象徴でもあった。少量生産で手仕上げを貫く時計が、ブランドの規模ではなく作者の名において評価される——そうした現代の独立時計師像の土台が、ここで形づくられていく。

設立から数十年を経て、会員名簿は独立時計師の系譜をたどる地図のようになった。フランソワ=ポール・ジュルヌ、カリ・ヴォーティライネン、ヴィアネイ・ハルターといった名がそこに連なる。2010年にはジュネーブの時計グランプリで特別賞を受け、その評価は広く定着していった。その歩みは、機械式が道具から嗜好品へと意味を変えていく時代の、もうひとつの軸を形づくっている。

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