HMC 804
2017年登場、ダブルヒゲゼンマイとモジュラー機構を擁する、H.モーザーの自動巻フライングトゥールビヨン
HMC 804は、スイス・シャフハウゼンのH.モーザー&シー(H. Moser & Cie.)が手がける、自動巻フライングトゥールビヨン・キャリバーである。2017年、エンデバー・トゥールビヨン・コンセプトに初搭載された。直径32mm、厚さ5.5mm、毎時21,600振動 (3Hz)、28石、パワーリザーブは約72時間に及ぶ。6時位置で1分間に1回転するフライングトゥールビヨンと、姉妹会社プレシジョン・エンジニアリングが製造するシュトラウマン・ダブルヒゲゼンマイを核とする。18金ローターで両方向に巻き上げ、エンデバー、パイオニア、ストリームライナーの各トゥールビヨンを駆動する基幹ムーブメントである。
| Maker | H. Moser & Cie |
|---|---|
| Reference | HMC 804 |
| Type | Automatic |
| Display | Analog |
| Frequency | 21,600 bph (3 Hz) |
| Jewels | 28 石 |
| Power reserve | 72 h |
| Movement ⌀ | 32 mm |
| Hands | Hours, Minutes |
| Additional | Tourbillon Escapement |
系譜と歴史
1. 独立系マニュファクチュールの自立
H.モーザー&シーは、2000年代に再興された独立系ブランドである。再建にあたり鍵を握ったのが、姉妹会社プレシジョン・エンジニアリング(Precision Engineering AG)の存在であった。同社はヒゲゼンマイ(テンプの振動周期を司る渦巻きバネ)や脱進機部品を自製し、外部のヒゲゼンマイ供給に依存しない体制を築いた。
その象徴が、2007年に発表されたシュトラウマン・ダブルヒゲゼンマイである。2枚の平ヒゲゼンマイを同軸に重ね、姿勢差による精度のばらつきを互いに打ち消す構造で、モーザー上級機の識別子となった。プレシジョン・エンジニアリングはこのヒゲゼンマイをローラン・フェリエなど他ブランドにも供給しており、部品メーカーとしての性格も併せ持つ。
2. モジュラー思想とトゥールビヨンへの応用
モーザーは創業当初から、脱進機(エネルギーを規則的に解き放つ機構)を独立モジュールとして組み込む設計を採ってきた。調整済みのユニットを後から差し込む方式で、保守を容易にする狙いがある。
この発想がトゥールビヨンへ応用されたのが、2014年のヴェンチュラー・トゥールビヨン・デュアルタイムであった。モーザー初のトゥールビヨンであり、Cal. HMC 802を搭載した。そして2017年、エンデバー・トゥールビヨン・コンセプトとともに登場したのがHMC 804である。先代がブリッジで上下から支持する形式だったのに対し、HMC 804は片持ち支持のフライングトゥールビヨンへと再設計された。デュアルタイム機構を省いた時・分・秒の構成で、ケージは先代のトゥールビヨン・ブリッジの形状を受け継いでいる。
3. 業界における位置
HMC 804は、自社でヒゲゼンマイから脱進機までを賄う独立系マニュファクチュールが、トゥールビヨンという伝統機構をどう再構成するかを示した一例である。重力誤差への対処を、トゥールビヨンとダブルヒゲゼンマイという二段構えで担わせた点に、プレシジョン・エンジニアリングの技術基盤が反映されている。
その後、ブリッジを部分的にスケルトン化したHMC 805が後継として展開され、本系譜は現行ラインへと引き継がれている。
技術解説
HMC 804は、直径32mm(14 1/4型)、厚さ5.5mmの自動巻トゥールビヨン・キャリバーである。毎時21,600振動 (3Hz)、28石、単一香箱(ゼンマイを収める部品)を備え、パワーリザーブは約72時間に達する。巻き上げは18金ローターによる両方向爪式で、ローターはスケルトン化され、裏蓋越しに機構を見通せる。
フライングトゥールビヨン
6時位置のトゥールビヨンは、1分間に1回転する。テンプ(往復回転で時間を刻む調速車)と脱進機をケージごと回転させ、姿勢差による精度のばらつきを平均化する機構である。上側のブリッジを持たない片持ち支持のフライング形式を採り、開口部から回転を観察できる。ケージ内のブリッジは、上段に重ねたダブルヒゲゼンマイの支持も兼ねる。
ダブルヒゲゼンマイ
本機最大の特徴が、モーザーが特許を保有するダブルヒゲゼンマイである。同一仕様の平ヒゲゼンマイ2枚を同軸に重ね、巻き方向を180度反転させて配置する。これにより各ヒゲゼンマイの重心が互いに打ち消し合い、組全体の重心が軸の中心に保たれる。ヒゲゼンマイは収縮・伸張のたびに重心が偏り、姿勢ごとに精度が変動する。2枚を逆向きに重ねる構成は、この偏りを相殺し、同心性と等時性(振幅が変わっても周期が一定に保たれる性質)を高める。トゥールビヨンが重力誤差を回転で平均化するのに対し、ダブルヒゲゼンマイは誤差の発生源そのものを抑える。両者を併載することで、重力への対処を二重に担わせている。
モジュラー・トゥールビヨン
トゥールビヨン調速機はモジュール化されており、本体から独立して組み立て・調整される。保守時にはユニットごと取り外し、注油・調整済みのモジュールと交換できる。トゥールビヨン専門の訓練を要さず、整備の所要時間を短縮する狙いがある。
仕上げ
ブリッジには幅を変えたコート・ド・ジュネーブ(筋状の装飾)が施され、モーザーの識別的意匠となっている。面取り(アングラージュ)はフライス加工により広く光沢のある面に整えられる。巻き上げ系では、18金ローターが両方向に作動して香箱を効率よく巻き上げ、トゥールビヨンによる消費を補う。単一香箱の構成ながら、毎時21,600振動という比較的緩やかな振動数は、トゥールビヨンの消費エネルギーを抑え、約72時間のパワーリザーブを確保する設計上の選択でもある。高振動化による精度追求ではなく、機構全体の安定とエネルギー収支を優先した構成といえる。