精工舎 設立
輸入時計に頼っていた日本で、掛時計の製造から国産化への一歩を踏み出す。後のセイコーへ連なる製造基盤はここに始まった。
概要
Overview1892年5月、服部金太郎は東京の本所区石原町に時計製造工場精工舎を設立した。輸入販売で蓄えた資金を元手に、念願の国産時計製造へ乗り出したのである。技師長には機械加工に長けた吉川鶴彦を迎えた。まず手がけたのはアメリカ式の掛時計で、設立から2か月後の7月には製造に成功する。当時の日本は改暦後の旺盛な時計需要を輸入に頼っており、国産の製造基盤は乏しかった。金太郎は品質を守るため部品まで自社で作る道を選び、組立中心だった既存の製造とは一線を画した。精工舎はやがて懐中時計、腕時計へと製品を広げ、後のセイコーへ連なる国産時計工業の礎となった。
背景
Background明治政府は1872年に改暦を断行し、時刻制度を不定時法から定時法へ改めた。300年近く作られてきた和時計は無用の長物となり、新しい定時法の時計が急に必要とされた。だが国内にその製造基盤はなく、旺盛な需要は輸入に頼らざるをえなかった。
国産時計の芽が出るのは1877年ごろである。東京・名古屋・大阪の少数の業者が、欧米の掛時計や懐中時計を手本に小規模な製造を始めた。1880年代に入ると定時法が学校や社会に定着し、会社勤めの増加とともに時計の需要も広がっていく。時計商の集まる都市には掛時計の工場が次々と現れた。もっとも、その多くは部品を寄せ集めて組み立てる方式で、品質は安定しなかった。
こうしたなか、輸入時計の販売と修理で身を立てた服部金太郎は、かねて国産時計を自らの手で作ることを志していた。1881年に開いた服部時計店は、舶来品の取り扱いで信用と資金を蓄えていた。販売だけでは飽き足らず、製造へ踏み込む準備が整いつつあった。金太郎が組もうとしたのが、機械加工の才で知られた職人、吉川鶴彦である。
出来事
The Event1892年5月、金太郎は東京の本所区石原町、現在の墨田区石原にあたる土地に時計製造工場を構えた。先立って吉川鶴彦とともに名古屋の掛時計工場を視察し、製造の手がかりをつかんでいた。借りたのは硝石工場の跡という遊休地で、これを仮の工場とした。社名は精工舎と名づけた。精巧な時計を自らの手で作り、欧米に伍する産業を起こすという志を、その名に託したとされる。技師長には吉川鶴彦を迎え、時計の国産化を二人の共通の目標とした。金太郎は31歳、吉川は28歳だった。
最初に手がけたのは、アメリカ式のボンボン時計と呼ばれた掛時計である。当時の国産時計づくりは掛時計から始めるのが通例で、精工舎もその道をたどった。設立からおよそ2か月後の7月、吉川の働きで掛時計の製造に成功する。発足時の従業員は10名あまりという小さな所帯だった。
金太郎の製造には、当時の主流と異なる方針があった。掛時計づくりの中心だった名古屋では、完成品メーカーが下請けから部品を集めて組み立てるのが一般的だった。これに対し金太郎は、品質を保つため部品から自社で作り、価格はやや高くとも質で勝負する道を選んだ。組立にとどまらない、製造業としての時計づくりである。
事業は早くも手狭になり、翌1893年には本所区柳島、現在の墨田区太平町にあたる地へ工場を移した。あわせて5馬力の蒸気機関を導入し、手作業から動力による生産へ切り替える。掛時計の量産体制が整い、精工舎は次の段階への足場を得た。
意義
Significance精工舎の設立は、輸入に依存していた日本の時計を、自前で作る産業へと変える起点となった。明治20年代には各地で時計工場の設立が相次いだが、そのなかで精工舎は国産時計工業の本格的な出発点とされる。販売を担ってきた服部時計店が製造をも手にしたことで、卸と小売に自社製造が加わり、輸入品に頼らない供給の体制が芽生えた。
掛時計で得た製造の蓄積は、より小さく精密な時計へと向かう。精工舎は1895年に初の懐中時計タイムキーパーを送り出し、当時主流だった懐中時計の分野へ歩を進めた。この事業は輸入品との競争で15年にわたり赤字を抱えたが、金太郎は国産の時計産業を残すという意志のもとで撤退しなかった。吉川による部品加工の機械化で量産の壁を越え、その延長線上に1913年の国産初とされる腕時計ローレルが現れる。
服部時計店の創業に始まった金太郎の歩みは、精工舎という製造の核を得て一つの体系になった。販売から製造、そして精度の追求へと続く流れは、後のセイコーの土台となった。日本の時計は、輸入への依存から国産の自立、そしてアジアや欧米への輸出へと歩みを進めていく。その長い道のりの出発点に、精工舎の設立は置かれている。