HM10
2020年登場、文字盤上に浮かぶ大型テンプと顎型のパワーリザーブを備えた、MB&Fの三次元手巻きエンジン
HM10エンジンは、MB&Fが2020年に発表した手巻きムーブメントである。301の部品と34石で構成され、毎時18,000振動 (2.5Hz) のテンプが単一香箱から45時間を駆動する。最大の特徴は、時刻表示を立体化した三次元構造にある。時と分は文字盤上の2つの回転ドームで示され、直径14mmの大型テンプが文字盤の上方に剥き出しのまま浮かぶ。ぜんまいの残量は、ケース下部の蝶番式の「顎」が開閉することで表される。Horological Machine N°10「Bulldog」に初搭載され、2022年のDark Bulldogなどに展開された。
| Maker | MB&F |
|---|---|
| Reference | HM10 |
| Type | Handwound |
| Display | Analog |
| Frequency | 18,000 bph (2.5 Hz) |
| Jewels | 34 石 |
| Power reserve | 45 h |
| Hands | Hours, Minutes |
| Additional | Power Reserve Indicator |
系譜と歴史
機械を「生き物」にする系譜
MB&Fは2005年、マキシミリアン・ブッサーが「Maximilian Büsser & Friends」の名で創設した独立時計ブランドである。製品を時計ではなく「機械(Horological Machine)」と呼び、立体的な造形と運動を作品の核に据えてきた。クラゲ、カエル、自動車——既存の生物や乗り物から発想を得る手法は同社の常套で、HM10もまた「ブルドッグ」という生き物の姿を借りている。
HM10エンジンは2020年に登場した。技術的には全く新しい機構の発明というより、それまでにMB&Fが各作品で培ってきた要素を一つの躯体へ凝縮した、集大成の性格が強い。同社自身、長年積み上げた専門技術が合流した産物だと位置づけている。
三つの源流
回転ドームによる時刻表示の起源は、ブランドの評価を決定づけた初代Horological Machine N°3の円錐型モジュールにさかのぼる。続くHM3 Frogでは、表示体を可能なかぎり軽くする必要から、円錐がドーム形へと姿を変えた。伝統的な切削加工を見直すことで、紙一枚ほどの厚みまで追い込んだ極薄の三次元アルミ部品が実現したのである。ドームはさらにHorological Machine N°6で再登場し、ベベルギアと組み合わされて高精度な表示を担った。HM10の時刻ドームは、この系譜の延長線上にある。
文字盤の上方に浮かぶ大型テンプは、Legacy Machineコレクションで重ねられた吊り下げ式調速機の試行があって初めて成立した。そして残量を示す「顎」の発想は、2014年のLM1 Xia Hangに組み込まれたパワーリザーブ機構を、大きく拡張したものである。
ブルドッグ、その変奏
HM10は2020年の発表時、グレード5チタンと、チタン×レッドゴールドの2仕様で供給された。リファレンスはチタン版が100.TL.BL、レッドゴールド版が100.RL.Bとされる。
2022年には、PVD加工を施したスティールケースのDark Bulldogが登場した。黒・赤・青の表示ドームを持つ3種が、各8本の限定で作られたと伝わる。
機構を共有する特別な一本としては、2021年の慈善オークションOnly Watch向けに製作されたHM10 Pandaが挙げられる。ブルドッグの躯体をパンダに見立てた一点物で、ラッカー塗装のためにケース上部をスティールへ変更している。エンジン自体は2020年の標準仕様と同一とされる。
立体的な動きそのものを作品とするこうした姿勢は、独立時計界にあってMB&Fの輪郭を際立たせてきた。HM10エンジンは現在、生産を終えている。
技術解説
HM10エンジンは、時刻表示の主要素をムーブメント平面の上方へ立体的に持ち上げた、三次元構造の手巻きムーブメントである。単一香箱・34石で構成され、部品点数は301に及ぶ。
時刻を示すのは、文字盤面に水平に置かれた2つの回転ドームである。ドームはアルミニウム製の極薄部品で、紙一枚ほどの厚みまで追い込まれている。この軽量化は単なる薄さの追求ではなく、回転体の慣性を抑え、香箱トルクへの負荷を減らすための要請であった。ドーム上およびインデックスにはSuper-LumiNovaが施され、暗所でも時刻が読める。
本エンジンの視覚的な中心は、文字盤の上方に浮かぶ直径14mmの大型テンプ(振動錘)である。テンプは伝統的な4本の調整ねじを備え、中央のサファイアドームの直下で、遮るもののないまま振動する。脱進機——ぜんまいの力を一定間隔で解き放つ機構——から伝わる振動の往復を、肉眼で追える構成となっている。
テンプは毎時18,000振動 (2.5Hz) で時を刻む。現代の量産機が毎時28,800振動 (4Hz) を主流とするなか、HM10があえて低い振動数を採るのは、テンプの動きを目で追える速度に保つためである。高い振動数は一般に姿勢差や外乱への耐性で有利とされるが、本エンジンは見せ場としてのテンプを優先し、緩やかな振動を意図して選んでいる。
動力源は単一香箱で、満巻きから45時間を駆動する。立体表示という重い負荷を抱えるため、香箱トルクは表示系へ集中的に振り向けられるよう設計されている。
ぜんまいの残量は、ケース下部に置かれた蝶番式の「顎」の開閉で示される。満巻きで顎が大きく開いて歯列が露わになり、ぜんまいがほどけるにつれて閉じていく。装飾性の高い機構でありながら、消費エネルギーを最小に抑えるよう調整され、主トルクを表示系から奪わない配慮がなされている。
巻き上げと時刻合わせは系統が分けられ、リューズが2つ設けられている。11時位置のリューズで巻き上げ、1時位置のリューズで時刻を合わせる。
時刻表示も残量表示も、着用者の視点からのみ読み取れるよう配置されている。腕に載せた本人だけが時を知るという私的な可読性が、構造そのものに織り込まれている。
立体構造ゆえに限られた容積へ機構を収める必要があり、各部品は高い組み上げ精度を要求される。視認できる面には手仕上げによる装飾が施され、機械でありながら造形作品としての完成度が保たれている。防水性能は50m防水で、立体的な機構を2枚のサファイアクリスタルが覆う。